VMO最大の難産ライブ。このライブがなければ、VMO EPISODEは「6」で終わっていた。 |
YMOコピーバンド「.EXE」のリーダーであり、「YMOdelic Night」の主催者である高沢俊一氏 から、'98年7月に行うYMO結成20周年記念アマチュア・イベント『YMOdelic Night 1978+20』 への出演依頼が最初に来たのは、同年1月だったと記憶している。 高沢氏は、以前VMOのライブ・ビデオ(おそらくEPISODE 3)を見て気にっていただき、'97年 7月には、わざわざ浜松まで我々のライブを見に来てくれた(EPISODE 6)。 |
最初の出演依頼については、半ば冗談とも思ったが、一応メンバーにはE-mailにて連絡するが、 それに対するメンバーの反応は「ゼロ」であった。 無理もない。昨年7月のライブ(EPISODE 6)でエネルギーを使い果たし「次のライブ」など考 えていなかった。さらに、あの機材を東京まで運んでセッティングをし、演奏までする、などと言 うことは、全く現実味がなかった。実際、以前にも何度か高沢氏から「東京で演らないか」とお誘 いをいただいたが、同じ理由で断っていた。 加えて、この年の3月末でボクがR社を退職する、ということは、この時点ではメンバーには知 らせておらず、ボク自身も昨年7月のライブが、VMOとしての最後のライブのつもりだった。その ため、ボク個人にとっても「現実味のない」依頼だった。 2月に再度、高沢氏より連絡をいただくが、ボクの退職、および東京への引越しの準備などで、 正直E-mailを受け取ったこと自体忘れてしまっていた。 |
同年3月末日にR社退職後に上京し、気ままなプー太郎生活を送っていると、再々度高沢氏より E-mailをいただく。 「ひょっとしたら、退職のドタバタでE-mailを読んでいなかったかもしれないので、再度…」 |
ようやく、この時初めて高沢氏が本気であることがわかり、浜松のメンバーにE-mailを送る。 |
VMOは、もともと「バンド」というよりは、メンバーの気の向いたときに集まって活動を行う 「ユニット性」が強く、しかも、積極的に対外的な活動をするよりは、自分の趣味の範囲で「や りたいことをやりたい時にやる」という方針。また、不特定多数の場所で活動を行うことを嫌う 面も多々あり、浜松での現状の活動を拡大することを嫌うメンバーもいた。 それだけではない。ご存知の通り、YMOに対する拘りは自他共に認めるメンバーだけあって、 ひとたびライブを演る、となると、全神経をライブに集中させねばならない。私生活はもちろん、 仕事にいたってもライブ以外の事を考える余裕は、とてもない。その反動のためライブ後には、 かなりの充電期間も必要となる。敵から攻撃を受けても耐えなければいけない、エネルギー充電 120%状態。宇宙戦艦ヤマトで言うと「波動砲」のようなものだ。 また、メンバーが多いこともあり、イベントへに向けてへの全員のメンタル的な周期の一致性も、 最大でありながらも、最低限の出演条件。これだけの全精力を傾ける必要があるので、少しでも 「気がのらない」というメンバーがいると、VMOの活動はありえない。宇宙戦艦ヤマトで言うと 「ワープ」のタイミングのようなものだ。 |
つまり、宇宙戦艦ヤマト6艦が、同時に「波動砲」と「ワープ」を行うようなタイミングでライ ブを行うようなものだ。それは奇跡に近い。 |
これまでの浜松での、比較的身内イベントと違い、東京の、しかも不特定多数の観客の前でのラ イブ出演依頼に対して、予想通り議論が噴出した。 |
「そのイベントの趣旨は何なのか」 「なぜ我々は出演する必要があるのか」 「我々に求められているのは何なのか」 「その要求に対して答えられるのか」 「何のために出演するのか」 |
当時、ほとんどプー太郎状態だったボクは、毎日5時間近くPCの前に座り、メンバーとE-mailを やり取りする状況が続いた。 |
そして、高沢氏に「VMO出演辞退」の連絡をする。 |
それでも高沢氏より執拗なお誘いをいただく。 個人的に何とか参加したいと考えていた私は、再調整を行い「VMOとしては出ないかもしれないが、 何かと参加したい。とりあえず1バンドの出演をお願いしたい」との参加を申し込む。 ゴールデン・ウィーク直前。連休の間もメンバーとE-mailでの話し合いを続け、ようやく全員の 了承を得て、VMOの参加表明を行う。5月上旬。高沢氏にお誘いを受けて以来、実に5ヶ月が経っ ていた。 |
ひと度、出演の意思統一が行われると、あとは放っておいても企画は爆進する。これは、あれだけ 出演の説得をしたいたボクも追いつかないほどだ(笑)。よって準備は至極順調。初期のいわゆる 「1次」のライブを行うことにする。そのため、ギターには、香津美バリバリの伊藤さんに出演を お願いする。 高沢氏からは「トリ」の出場を頼まれるが、セッティングの不安と、演出的な流れを考えトップ バッターを希望し、受け入れていただく。これで複雑なセッティングも可能となった。 |
最大の問題は練習。ボク以外の浜松組メンバーは、とりあえずSMFでドラム・データを作り月3〜 4度の練習を行う。ボクはそのテープを送ってもらって感覚をつかむ。 |
そして、6月に初の全員練習。 |
今回はスティックだけを持って新幹線で浜松へ。2ケ月前に「もう来ることはないだろうな」と 思って眺めていた浜松の風景が、いつもと同じように目の前に広がる。練習は、予想以上のイイ出 来でボクもみんなも上機嫌。日帰りのつもりが、あっこちゃうやんことオガワヒロシくんの部屋に 泊めてもらうことに した。 |
VMOは、今まで打ち上げをしたことがなかった。メンバーともバンドの事ではバカ話しをしては ヘラヘラしているが、プライベートで話したり、電話したり、飲みに行くことは皆無だった。まし てや、メンバーの部屋に遊びに行くなんてことはなく、プライベートに関しては、全く無関与だっ た(ま、だからVMOに参加した、という面もあるのだが)。 しかし、オガワヒロシくんとは、同期入社ということや元々同じ寮生ということもあり、さらに二 人ともYT派ということで以前からよく飲んでいたのだが、たまたま「まだ食事していない」という ハリー天野さんと一緒に3人で食事に行くことになった。とは言え、すでに夜11時近く。居酒屋ぐら いしか開いてない。 |
「すんません、ボクら飲んじゃうと思いますけど」と行った居酒屋で一番飲んだのは、実はハリー さんであった。そう、天野さんがビールを飲む人、ということ自体知らなかったのだ。今までバンド やってたのに。結局「飲み足りない(笑)」という天野さんと食事後も、オガワヒロシくんの部屋で YMOを大音量で聴きながら朝まで話しをする。時計が朝3時を過ぎていたので「そろそろ寝ますか」 と言って散開。 |
しかし、オガワヒロシくんの部屋時計が狂っており、実際は、すでに朝7時近くになっていた。 |
2度目の全員練習は7月5日。本番一週間前だ。シンドラ系の機材を全部持って行くことになり、 新幹線ではなくクルマで浜松へ。前日土曜日にRenaultのカーバッテリーの充電から準備を始める。 快晴、晴天、爆暑。 冷房の効かないRenaultでの高速はしんどい。高速サービスエリアで「わぁ〜暑い暑い。早くクル マに戻ろう!」という観光客の中、ひとりだけ「うっひょ〜スズシイスズシイ!!!」を日向で自然 の風を浴び涼む。 |
そんな状態でスタジオに入ると、クーラー激効状態。すっかり体調を崩す。その日は日曜というこ ともあり日帰りするが、翌日朝、浴室で鼻血が吹き出し発熱。やばい。なんとか毎日ユンケルを飲に 続けライブ当日まで我慢する。 が、最大の心配は、声が出ない。 |
ライブ当日を迎える。 |
厚い雲に覆われた天候だが、なんとか雨は大丈夫そうだ。浜松組は2台の車で東京に向かい、朝 10時にまずはボクの自宅到着。シンドラ関係の機材を積んで、渋谷に向けて再出発、ボクは電車で 会場のNestへ向かう。 |
ON AIR NESTに着くと、すでに高沢氏到着しビデオを回している。 |
初めて会うYセツ王のメンバー。本当に彼らと同じステージに立つのか? 「おはようございまぁ 〜す」会場入りするメンバーに、タジタジになる。見た目も雰囲気も、もう別格の人達だ。 しかし、ドラマーの中村氏が、ボクらの「いんちきシンドラ」にすぐさま興味を示してくれ、いろ いろ話し掛けてくれる。「いいねぇ、すごいねぇ」を連発しデジカメに撮っていた。おかげでだいぶ 緊張がほぐれる。 高沢氏とは、すでに何度かお会いし、ある程度は気の知れた仲。とは言え、.EXEのメンバーとして 会うのは初めて。すでに東京で.EXEの活動は広く知れ渡られており、そういう意味でもやはり別人に 見える。 となると、一番親しみのあるのはQuiet Villageの八田さん。ボクはもちろん、今日VMOの助っ人 で浜松から同行してくれてる清田さんの大学の後輩ということで、緊張の逃げ場にさせてもらう。 ところが、QVのリハを聴いて愕然。「げっ、こいつらと一緒に演るの? 勘弁してくれ(大汗&泣)」 もう、孤立無援の状態。やはり出ない方がよかったか。 |
出演順が最初なので、リハは最後。VMOのリハはPAがらみで大トラブル発生。原因不明のノイズが PAより出る。清田さんが悪戦苦闘してくれたために、シーケンス・システムを一部変えることで、何 とかノイズを消す。その結果、ドラマーのボク以外はクリックをモニターすることを断念。しかも、 トラブルにより時間が押し、ほとんど曲を演奏せずに客入れとなる。 なお、「このノイズ・トラブルは、絶対VMO側の問題ではない」と主張する清田さんが、浜松に戻っ た後にPAシステムを組んだ実験を行い、PAのモニター・システムに起因したトラブルだったことを突 き止めた、という後日談も、今となっては懐かしい。 |
初めて目にする満員の観客。ライブが始まる。 |
演奏は散々だった。体調の悪さはあるにせよ、不甲斐ない演奏。リハが不十分だったせいか、シン ドラが鳴ってない。しかも、関係ないトリガーを拾いって、鳴ってはイケナイところでシンドラが鳴 り出し、仕方なく、いろいろ演奏中にアレンジを変える。大江さんのシンセも、演奏中に音が出なく なるなどトラブル続出。客席で見守っていた清田さんも慌ててステージに駆け上がりトラブルを何と か解決。しかし、今度は客席に戻れなくなり、大きな身体を小さくしてステージに隠れていた、とい うのも、今では笑い話か。 観客の盛り上がりとは反比例して、気分はどんどん暗くなる。しかし「今日が最後だ」と思い、最 後まで演奏を続ける。 せっかく盛り上がったイベントだっただけに、申し訳ない、残念な気持ちでいっぱい。体調の悪さ もあるが、ただ、ひたすら後悔のライブであった。こんな演奏が最後になるとは… しかし「東京だと、こんなに人が集まるんだ」というのは驚きだった。唯一であり、最大の収穫。 |
演奏後、機材の片付け中に雨が降り出す。涙雨か。あまりのショックで、あとのバンドを聴く気が 起こらない。結局、再び会場に入ることはなかった。 |
イベント終了後は、雨、雨、雨。機材をクルマに積み込み、汗と雨でびしょ濡れ。結局体調が戻ら ないボクは、打ち上げに参加せずに帰宅。後に、あれほど打ち上げをしなかったメンバーから「すっ ごく打ち上げ面白かったよ」との声を聴き、'87に矢野顕子のライブに行かなかった時に次ぐ、人生 史上第2位の後悔をする。 そう言えば、八田さんが演奏終了後にNESTのバーで「いやぁ〜敗者復活戦をせんとな」と大変悔し がっていた。ボクにはわからなかったが、めちゃくちゃ失敗した、との事。今考えると、これが'翌年 99.3.6のQuiet Villageとのジョイント・ライブ(EPISODE 8)の前兆(まえぶれ)だったのか。 |
ライブ後、ボクらのイメージとは反対に、さまざまな称賛のメッセージをいただいた。せめてもの 救いだ。しかしながら「オフィシャルで、この4バンドの演奏をCD化したい」との高沢氏の依頼にも、 ふがいない演奏のためにVMOとしてはお断りした。 早く、是非とも納得いく演奏ができるようにがんばりたい。そして、もう少しVMOを続けてもいい かな、とも思った1日だった。そのために、個人的に描いていた人生設計を若干変更することになる。 |
YMOdelic Night 1978+20は、VMOはもちろん、ボク個人の人生のターニング・ポイントとなった、 貴重な出来事であった。 |
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