EPISODE 7

VMO 7th Live

YMOdelic Night 1978+20

1998.7.11(土)ライブハウス渋谷・ON AIR NEST

by MR.YF





 VMO最大の難産ライブ。このライブがなければ、VMO EPISODEは「6」で終わっていた。




 YMOコピーバンド「.EXE」のリーダーであり、「YMOdelic Night」の主催者である高沢俊一氏

から、'98年7月に行うYMO結成20周年記念アマチュア・イベント『YMOdelic Night 1978+20』

への出演依頼が最初に来たのは、同年1月だったと記憶している。



 高沢氏は、以前VMOのライブ・ビデオ(おそらくEPISODE 3)を見て気にっていただき、'97年

7月には、わざわざ浜松まで我々のライブを見に来てくれた(EPISODE 6)。




  最初の出演依頼については、半ば冗談とも思ったが、一応メンバーにはE-mailにて連絡するが、

それに対するメンバーの反応は「ゼロ」であった。



  無理もない。昨年7月のライブ(EPISODE 6)でエネルギーを使い果たし「次のライブ」など考

えていなかった。さらに、あの機材を東京まで運んでセッティングをし、演奏までする、などと言

うことは、全く現実味がなかった。実際、以前にも何度か高沢氏から「東京で演らないか」とお誘

いをいただいたが、同じ理由で断っていた。



  加えて、この年の3月末でボクがR社を退職する、ということは、この時点ではメンバーには知

らせておらず、ボク自身も昨年7月のライブが、VMOとしての最後のライブのつもりだった。その

ため、ボク個人にとっても「現実味のない」依頼だった。



  2月に再度、高沢氏より連絡をいただくが、ボクの退職、および東京への引越しの準備などで、

正直E-mailを受け取ったこと自体忘れてしまっていた。




  同年3月末日にR社退職後に上京し、気ままなプー太郎生活を送っていると、再々度高沢氏より

E-mailをいただく。



「ひょっとしたら、退職のドタバタでE-mailを読んでいなかったかもしれないので、再度…」




  ようやく、この時初めて高沢氏が本気であることがわかり、浜松のメンバーにE-mailを送る。




  VMOは、もともと「バンド」というよりは、メンバーの気の向いたときに集まって活動を行う

「ユニット性」が強く、しかも、積極的に対外的な活動をするよりは、自分の趣味の範囲で「や

りたいことをやりたい時にやる」という方針。また、不特定多数の場所で活動を行うことを嫌う

面も多々あり、浜松での現状の活動を拡大することを嫌うメンバーもいた。



  それだけではない。ご存知の通り、YMOに対する拘りは自他共に認めるメンバーだけあって、

ひとたびライブを演る、となると、全神経をライブに集中させねばならない。私生活はもちろん、

仕事にいたってもライブ以外の事を考える余裕は、とてもない。その反動のためライブ後には、

かなりの充電期間も必要となる。敵から攻撃を受けても耐えなければいけない、エネルギー充電

120%状態。宇宙戦艦ヤマトで言うと「波動砲」のようなものだ。



  また、メンバーが多いこともあり、イベントへに向けてへの全員のメンタル的な周期の一致性も、

最大でありながらも、最低限の出演条件。これだけの全精力を傾ける必要があるので、少しでも

「気がのらない」というメンバーがいると、VMOの活動はありえない。宇宙戦艦ヤマトで言うと

「ワープ」のタイミングのようなものだ。






  つまり、宇宙戦艦ヤマト6艦が、同時に「波動砲」と「ワープ」を行うようなタイミングでライ

ブを行うようなものだ。それは奇跡に近い。




  これまでの浜松での、比較的身内イベントと違い、東京の、しかも不特定多数の観客の前でのラ

イブ出演依頼に対して、予想通り議論が噴出した。




「そのイベントの趣旨は何なのか」

       「なぜ我々は出演する必要があるのか」

                「我々に求められているのは何なのか」

                       「その要求に対して答えられるのか」

                               「何のために出演するのか」




  当時、ほとんどプー太郎状態だったボクは、毎日5時間近くPCの前に座り、メンバーとE-mailを

やり取りする状況が続いた。




 そして、高沢氏に「VMO出演辞退」の連絡をする。




  それでも高沢氏より執拗なお誘いをいただく。



  個人的に何とか参加したいと考えていた私は、再調整を行い「VMOとしては出ないかもしれないが、

何かと参加したい。とりあえず1バンドの出演をお願いしたい」との参加を申し込む。



  ゴールデン・ウィーク直前。連休の間もメンバーとE-mailでの話し合いを続け、ようやく全員の

了承を得て、VMOの参加表明を行う。5月上旬。高沢氏にお誘いを受けて以来、実に5ヶ月が経っ

ていた。




  ひと度、出演の意思統一が行われると、あとは放っておいても企画は爆進する。これは、あれだけ

出演の説得をしたいたボクも追いつかないほどだ(笑)。よって準備は至極順調。初期のいわゆる

「1次」のライブを行うことにする。そのため、ギターには、香津美バリバリの伊藤さんに出演を

お願いする。



  高沢氏からは「トリ」の出場を頼まれるが、セッティングの不安と、演出的な流れを考えトップ

バッターを希望し、受け入れていただく。これで複雑なセッティングも可能となった。




  最大の問題は練習。ボク以外の浜松組メンバーは、とりあえずSMFでドラム・データを作り月3〜

4度の練習を行う。ボクはそのテープを送ってもらって感覚をつかむ。




  そして、6月に初の全員練習。




  今回はスティックだけを持って新幹線で浜松へ。2ケ月前に「もう来ることはないだろうな」と

思って眺めていた浜松の風景が、いつもと同じように目の前に広がる。練習は、予想以上のイイ出

来でボクもみんなも上機嫌。日帰りのつもりが、あっこちゃうやんことオガワヒロシくんの部屋に

泊めてもらうことに

した。




  VMOは、今まで打ち上げをしたことがなかった。メンバーともバンドの事ではバカ話しをしては

ヘラヘラしているが、プライベートで話したり、電話したり、飲みに行くことは皆無だった。まし

てや、メンバーの部屋に遊びに行くなんてことはなく、プライベートに関しては、全く無関与だっ

た(ま、だからVMOに参加した、という面もあるのだが)。



  しかし、オガワヒロシくんとは、同期入社ということや元々同じ寮生ということもあり、さらに二

人ともYT派ということで以前からよく飲んでいたのだが、たまたま「まだ食事していない」という

ハリー天野さんと一緒に3人で食事に行くことになった。とは言え、すでに夜11時近く。居酒屋ぐら

いしか開いてない。




  「すんません、ボクら飲んじゃうと思いますけど」と行った居酒屋で一番飲んだのは、実はハリー

さんであった。そう、天野さんがビールを飲む人、ということ自体知らなかったのだ。今までバンド

やってたのに。結局「飲み足りない(笑)」という天野さんと食事後も、オガワヒロシくんの部屋で

YMOを大音量で聴きながら朝まで話しをする。時計が朝3時を過ぎていたので「そろそろ寝ますか」

と言って散開。




  しかし、オガワヒロシくんの部屋時計が狂っており、実際は、すでに朝7時近くになっていた。




  2度目の全員練習は7月5日。本番一週間前だ。シンドラ系の機材を全部持って行くことになり、

新幹線ではなくクルマで浜松へ。前日土曜日にRenaultのカーバッテリーの充電から準備を始める。



  快晴、晴天、爆暑。



冷房の効かないRenaultでの高速はしんどい。高速サービスエリアで「わぁ〜暑い暑い。早くクル

マに戻ろう!」という観光客の中、ひとりだけ「うっひょ〜スズシイスズシイ!!!」を日向で自然

の風を浴び涼む。




  そんな状態でスタジオに入ると、クーラー激効状態。すっかり体調を崩す。その日は日曜というこ

ともあり日帰りするが、翌日朝、浴室で鼻血が吹き出し発熱。やばい。なんとか毎日ユンケルを飲に

続けライブ当日まで我慢する。



  が、最大の心配は、声が出ない。




  ライブ当日を迎える。




  厚い雲に覆われた天候だが、なんとか雨は大丈夫そうだ。浜松組は2台の車で東京に向かい、朝

10時にまずはボクの自宅到着。シンドラ関係の機材を積んで、渋谷に向けて再出発、ボクは電車で

会場のNestへ向かう。




  ON AIR NESTに着くと、すでに高沢氏到着しビデオを回している。




  初めて会うYセツ王のメンバー。本当に彼らと同じステージに立つのか?  「おはようございまぁ

〜す」会場入りするメンバーに、タジタジになる。見た目も雰囲気も、もう別格の人達だ。



  しかし、ドラマーの中村氏が、ボクらの「いんちきシンドラ」にすぐさま興味を示してくれ、いろ

いろ話し掛けてくれる。「いいねぇ、すごいねぇ」を連発しデジカメに撮っていた。おかげでだいぶ

緊張がほぐれる。



  高沢氏とは、すでに何度かお会いし、ある程度は気の知れた仲。とは言え、.EXEのメンバーとして

会うのは初めて。すでに東京で.EXEの活動は広く知れ渡られており、そういう意味でもやはり別人に

見える。



  となると、一番親しみのあるのはQuiet Villageの八田さん。ボクはもちろん、今日VMOの助っ人

で浜松から同行してくれてる清田さんの大学の後輩ということで、緊張の逃げ場にさせてもらう。

ところが、QVのリハを聴いて愕然。「げっ、こいつらと一緒に演るの?  勘弁してくれ(大汗&泣)」



  もう、孤立無援の状態。やはり出ない方がよかったか。




  出演順が最初なので、リハは最後。VMOのリハはPAがらみで大トラブル発生。原因不明のノイズが

PAより出る。清田さんが悪戦苦闘してくれたために、シーケンス・システムを一部変えることで、何

とかノイズを消す。その結果、ドラマーのボク以外はクリックをモニターすることを断念。しかも、

トラブルにより時間が押し、ほとんど曲を演奏せずに客入れとなる。



 なお、「このノイズ・トラブルは、絶対VMO側の問題ではない」と主張する清田さんが、浜松に戻っ

た後にPAシステムを組んだ実験を行い、PAのモニター・システムに起因したトラブルだったことを突

き止めた、という後日談も、今となっては懐かしい。




  初めて目にする満員の観客。ライブが始まる。




  演奏は散々だった。体調の悪さはあるにせよ、不甲斐ない演奏。リハが不十分だったせいか、シン

ドラが鳴ってない。しかも、関係ないトリガーを拾いって、鳴ってはイケナイところでシンドラが鳴

り出し、仕方なく、いろいろ演奏中にアレンジを変える。大江さんのシンセも、演奏中に音が出なく

なるなどトラブル続出。客席で見守っていた清田さんも慌ててステージに駆け上がりトラブルを何と

か解決。しかし、今度は客席に戻れなくなり、大きな身体を小さくしてステージに隠れていた、とい

うのも、今では笑い話か。



 観客の盛り上がりとは反比例して、気分はどんどん暗くなる。しかし「今日が最後だ」と思い、最

後まで演奏を続ける。



  せっかく盛り上がったイベントだっただけに、申し訳ない、残念な気持ちでいっぱい。体調の悪さ

もあるが、ただ、ひたすら後悔のライブであった。こんな演奏が最後になるとは…



  しかし「東京だと、こんなに人が集まるんだ」というのは驚きだった。唯一であり、最大の収穫。




  演奏後、機材の片付け中に雨が降り出す。涙雨か。あまりのショックで、あとのバンドを聴く気が

  起こらない。結局、再び会場に入ることはなかった。




  イベント終了後は、雨、雨、雨。機材をクルマに積み込み、汗と雨でびしょ濡れ。結局体調が戻ら

ないボクは、打ち上げに参加せずに帰宅。後に、あれほど打ち上げをしなかったメンバーから「すっ

ごく打ち上げ面白かったよ」との声を聴き、'87に矢野顕子のライブに行かなかった時に次ぐ、人生

史上第2位の後悔をする。



  そう言えば、八田さんが演奏終了後にNESTのバーで「いやぁ〜敗者復活戦をせんとな」と大変悔し

がっていた。ボクにはわからなかったが、めちゃくちゃ失敗した、との事。今考えると、これが'翌年

99.3.6のQuiet Villageとのジョイント・ライブ(EPISODE 8)の前兆(まえぶれ)だったのか。




  ライブ後、ボクらのイメージとは反対に、さまざまな称賛のメッセージをいただいた。せめてもの

救いだ。しかしながら「オフィシャルで、この4バンドの演奏をCD化したい」との高沢氏の依頼にも、

ふがいない演奏のためにVMOとしてはお断りした。



  早く、是非とも納得いく演奏ができるようにがんばりたい。そして、もう少しVMOを続けてもいい

かな、とも思った1日だった。そのために、個人的に描いていた人生設計を若干変更することになる。




  YMOdelic Night 1978+20は、VMOはもちろん、ボク個人の人生のターニング・ポイントとなった、

貴重な出来事であった。


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