1992.4 | |
シンセ好きの天野康ニ(愛知県出身)が某電子楽器メーカーRに入社。そこ で、文系出身でありながらも何故だか開発部門に配属されてしまった、YMOと プロレスをこよなく愛する男大江浩二(佐賀県出身)と出会う。同じ寮生活を 送っていた2人は、寮の宴会でYMOの話しで盛り上がり、先輩のドラマーと3人 でVMOを結成する。しかし、その活動は、寮の部屋や会社のスタジオで演奏して 楽しむにとどまっていた。 |
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この年の後半に、インターネットで、とあるMailing List(ML)にて大江と 布施雄一郎(福岡県出身)が出会う。しかし、布施にとっては、大江のmail シグネチャ―に印された「VMO」の文字は謎のままだった。もっぱらの話題は YMOと福岡ダイエーの話題であった。 | |
1993.4 | |
九州からシンセ/ギター/ベースを弾きこなすマルチ・プレーヤー野上健二 (大分県出身)が同メーカーに入社。同期入社のメンバーとバンド「エレクド ン」を結成し、YMOのナンバーを演奏する。その後、メンバーチェンジしたVMO に加わり、プロレス的エンターテインメント性をバンドにもたらす。 その「エレクドン」には、オーケストラでビオラを奏でる“Mr.Interneter” 小林茂(愛知県出身)も参加。その後、VMO 5th Liveに映像作家「原田大五郎」 としてVMOに参加し、ステージ上のカメラ映像と画像をリアルタイムに合成した 「うそインターネット・ライブ」を行う。その翌年にはMR.YF BANDでも映像を 手がける。 また、バンドの中で唯一真剣に音楽と向い合う男、香津美ギター炸裂の練習の オニ・伊藤修一(千葉県出身)もこの年に入社する。 |
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そしてYMO再生。布施は就職活動もそっちのけに上京し、東京ドームで涙す る。新幹線で帰宅すると、2ヶ月前に就職資料請求した4シンセ・メーカーの うち唯一R社からの返信がポストの中に。そう、天野・大江・野上の3人が在 籍しているメーカーからのものだった。ほとんど採用時期を終えた同社での最 後の最後のチャンス。世の中はバブル崩壊で、求人も激減。が、入社試験の穴 埋め問題で「YMO」と答えた瞬間、布施は採用合格を確信する。 |
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8月には技術系の内定者工場見学会が行われ、同じく九州から来た小川博 (鹿児島県出身)と対面する。だが、この時は同じ九州、学校が福岡市という 共通点以外に、特に話すこともなかった。その時は、連絡先も教えぬまま別れ た2人だったが、小川の高校の同級生が布施と同じ大学に行っていたことから 電話番号がわかり、ある夜突然「小川だけど」と布施に電話がかかる。布施は 不信に思いながらも、こうして入社前から2人は連絡を取り合うようになった。 布施の内定の報告を聞いた大江は「バンドのメンバーの後輩でね、九州から 大のYMOファンが入社するらしいよ」と連絡。布施は「見学会に来なかった九 州人がいるのかな」とぼんやり考えていたが、後にそれが小川だということが 判明する。なんと、野上と小川は大学の、しかも同じ研究室の先輩・後輩の仲 であった。 余談ではあるが、布施の九州での友人が大江の高校時代の同級生であったり、 後にSYSTEM100Mの巨大な壁を持ってVMOに参加する清田雅彦(愛知県出身) が、当時より布施の知合いであった八田氏(Quiet Village)の大学・軽音サ ークルの先輩であったり、布施と小川は共に高校時代に吹奏楽部に所属、同じ ステージに立っていたことなど、偶然だけでは語れない出会いも多い。 |
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そして、3月末日、浜松市のホテルで「明日から社会人か」と学生気分最後 の夜を楽しむ布施の部屋に「来ったよぉ〜ん」と小川が乱入。当時、人との交 流に異常なまでに神経質になっていた布施は「とほほ」となりながらも、翌日 より2人は、社内報新入社員紹介コーナーで、それぞれ「YMO党」「幸宏党」 と明記し、天野・大江・野上の3人と合流することになる。 | |
1994.4 | |
布施・小川が入社後、小川はすぐにVMOの練習に参加するが、それまでバン ドを組んだことがない布施はバンドに対する抵抗感もあり、VMOの練習には参 加しなかった。ドラマーであった小川は、VMOにすでにドラムがいたことから キーボードを担当する。メンバー構成からたまたま矢野顕子パートを担当する が、挙句の果てにスネ毛まで剃ることになろうとは、神様ですら想像しなかっ たに違いない。 |
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その後、大江と布施が出会うキッカケとなった某MLが散開することになり、 東京で散開記念のライブ・パーティーを行うことが決まる。それにVMOが参加 することが決定。MLの古株メンバーだった布施もそのパーティーに出席するこ とになり、VMOの練習に初めて参加する。布施と2度目に顔を合わせたときの、 大江からのバンド参加への口説き文句は |
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当時の機材は、かなり簡潔なものだった(それでも当時は大変であったが)。 使用シンセ類は、 天野/ARP Odyssey 大江/Roland JD-800, Roland VP-330, ARP Solus 小川/KORG M1 で、当然、シーケンサも使っていなかった。ドラムにいたっては、ヤマハのポ ータブル・パーカッションDD-11を使用。と、ここでバンドとして大きな変化 を迎える。 |
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練習に参加した布施が、突然、中学時代に自作したアナログ・シンセドラ ム・キットの存在を思い出す。「じゅわぁ〜ん」「ぴろぴろぴろぴろ」と、ノ イズが多いものの、MoogやULTSOUNDにひけを取らない、なかなかいいサウンド が出せるシロモノであり、YMOのライブ・テープに合わせて鳴らしてよく遊ん でいたのだ(周囲からは不気味がられたが)。帰宅後、即、「あの机の上の角 に置いてる銀の箱を送ってくれ」と実家に電話し、速達で送ってもらう。到着 後、中身をチェック、音が鳴ることを確認すると、あまりの興奮に大江に電話 し、受話器をスピーカーに向けてピコピコと音を聞かせる。 次の練習にキットを持っていくと、メンバー全員興奮し盛り上がる。しかし、 そのキットにはパッドがなく、マイクなどの音声入力をトリガーにして鳴らす ようになっていた。 そこで、あのVMOのシンボルとも言えるクッキー缶パッドを作成することになる。 |
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実はあまり知られていないのだが、VMO自作の音源も存在する。布施の自作 したシンセドラム・キットは、音がよいのだがS/Nが悪かったため、音源自体 も作りなおしたのだ。パットが「ブルボン」のクッキー缶ならば、当然音源は 「もち吉」の煎餅缶である。S/Nを向上させ、同じ回路を2チャンネル組込み、 布施のキットと合わせて3チャンネルのアナログ・シンセドラム・サウンドを 鳴らせるようになった。これらの音源によるサウンドは、つい最近までメイン で使い、今でもULTSOUNDの音源をあえて使わず、キットの音をサンプリングし て使うこと場合もある。 本番まであと数週間、メンバーが揃ってほぼ1ヶ月しか経っていないにもか かわらず、「ホンモノそっくりだけど、よぉ〜くみると全然違う」というテキ 屋魂をコンセプトとしたVMOのスタイルが自然発生し、初ライブにして確立す ることになる。 |
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1994年6月10日。 YMO再生から、ちょうど1年後。 VMOは赤い人民服とクッキー缶で初めてのライブを行った。 |
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VMO LIVE LIST |